瑞穂の国 日本の焼酎の原点
世界に誇る米のハードリカー球磨焼酎
醪を焼くと濃厚な酒(酎)になる。すなわち、これを焼酎と呼ぶ
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日本最古の焼酎の記録は
鹿児島県伊佐市郡山に残されている
その記録は1559年(永禄2年)に書かれたもの。
場所は旧大口市郡山、当時は人吉盆地が本拠地の相良藩が治めていた。
その郡山にある八幡神社に残された大工の落書きに『焼酎』の文字がある。
1559年には甘藷が伝来していないから、その焼酎は芋ではなく、米だった可能性が極めて高い。
1546年(天文15年)に薩摩を訪れた、ポルトガル人 ジョルジェ・アバレスの
日本見聞録『日本報告』に『米から造るオカーラ(蒸留酒)』という記述もある。
神代の昔から、米の酒を愛してやまない日本人の、最初の焼酎が米焼酎なのは、ある意味、当然だ。
それが何故、実質的に米の焼酎は球磨地方だけに残ったのか・・
その正確な理由は誰もわからない。
独特の焼酎文化を今に伝える球磨地方
味はもちろん、その飲み方も強烈なアイデンティティを感じる。
まさに、球磨焼酎は単なる酔うためのアルコール飲料ではなく、
球磨の人々の素晴らしい文化の象徴でもあるのだ。
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郡山八幡神社の柱貫に残された大工の落書き。その落書きは昭和29年の改築時に本殿北東の柱貫から発見された。1507年(永正4年)に再興された郡山八幡神社の本殿は、室町及び桃山形式に琉球建築の手法が加味されている。
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当時の九州南部が琉球やシャム(タイ)との交流が盛んだった証でもあるだろう。蒸留酒の製造技術はシャム→琉球→薩摩ルートと、朝鮮ルートがあると言われているが、琉球の泡盛はタイ米で造る。郡山八幡神社が琉球様式を取り入れていることから、やはり、この大工の落書きはきっと米焼酎を指しているに違いない。落書きはこんな記録だ。
その時、座主八大キナこすてをちやりて
一度も焼酎ヲ不被下候 何ともめいわくな事哉
現代訳:日頃からケチな施主は、一度も焼酎を振る舞わなかった!
何とも迷惑なことである。永禄二歳八月十一日 作次郎 鶴田助太郎当時、大工まで愛好者が広がっていた米焼酎が、
現代の球磨焼酎に受け継がれているのは間違いない。
何故なら、この落書きがされた時期は、球磨焼酎の里である人吉盆地の相良藩が
郡山を統治していたし、何より、米焼酎は球磨焼酎以外に伝統的なものは残されていないからだ。
相良藩が自家製の焼酎造りを、さほど制限しなかったことと、良質の米と水に恵まれていたから、
球磨地方には米の焼酎文化が育まれたのだと考えられる。
そんな球磨焼酎、明治期には200軒近くあった蔵元は減り続け、今では28軒を残すだけとなった。
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生にこだわる球磨焼酎
まさに日本人のハード・リカー
明治以前は、非常に度数の高い焼酎を『チョク』という小さな盃で、なめるように飲むのが一般だったものが、大正・昭和になると、30度程度の酒を『ガラ』と呼ばれる酒器に入れ、囲炉裏で燗をして飲むようになり、今では25度の焼酎が主体となった。
時代とアルコール度数は変わったものの、球磨焼酎道の王道は『生』。生(き)でやるから、何と言っても酒の選択が最重要だ。
ストレートで嗜むハード・リカーの文化は世界中にある。アイリッシュウイスキー、テキーラ、グラッパ、白酒…いずれも高いアルコール度数の酒文化は、酒そのものの品質が厳しく問われる。同様に、猛烈にうまい球磨焼酎こそ愛好家が求める酒だ。そんな上質な球磨焼酎こそ、世界中のハードリカーラバーも認める、日本が世界に誇る伝統の米のハード・リカーなのだ。
㈱食文化 代表 萩原章史
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