一般入手困難な究極の豚!
豚の血統を知るシリーズ
数奇な運命で生き残った
原種「満州豚」
戦時中、密かに運ばれた満州豚
時の宰相、東条英機が主導し、1942年、第二次世界大戦真っ只中の中国大陸のある港から3隻の輸送船が密かに日本へ向かわせました。船の積荷は“満州豚”。本土決戦にそなえ、雑草やイモヅルなどで飼育できる“豚”に目をつけたのです。輸送の途中で2隻は撃沈されましたが、本土に辿り着いた1隻分の豚が各地に配布され、その一部が、茨城県古河市の陸軍駐屯所に送られました。軍はこれをハム加工業者を通じて付近の農家へ貸しつけ、肥育し繁殖させた上で仔豚を供与させることにしました。
満州豚に情熱を注いだ”近江 弘”
北海道のサラブレッド牧場の生まれである近江弘は、競走馬の育種を志して満州(現:中国東北部)に渡りましたが、日本が敗戦濃厚となったため帰国し、茨城県古河市で養豚と養鶏を営んでいました。
滞満中から豚にも精通していたことから、陸軍から豚の貸付に呼び集められたときに、即座に「大漢猪」「中漢猪」「荷包猪」等と呼びわけられている「満州豚」であることを直ぐに見抜いたそうです。(大漢猪とは大型の満州豚、中漢猪とは中型サイズの満州豚、荷包猪とは荷物に包めるほどの小さい満州豚です)
18頭の満州豚はくじ引きで分配され、近江氏は雄雌とも最も小さい満州豚「荷包猪」を入手。“満作”と名づけられた65kgの雄豚と、“満宝”と名づけられた60kgの雌豚 が、現在残った満州豚の基本種です。
その後、満州豚を日本に普及させようと努力した近江氏ですが、病に倒れ、土地や家屋を処分して、栃木県石橋町に移住し、長い療養生活をおくる身となりました。
近江氏から満州豚を引き継いだ
新妻尚二郎氏
昭和47年、福島県の病院建設の作業でこの地を訪れていた新妻氏は、建設場近くで食べた豚の焼肉(満州豚)があまりに美味しく、その焼肉店に通うようなり、偶然そこに訪れていた近江氏と出会いました。 二人は意気投合し、近江氏から満州豚の原種を分けてもらい、趣味で育て始めました。その後、近江氏が病気に倒れ、満州豚の飼育を断念してからは、新妻氏がその想いを引き継ぎ、今日まで満州豚の原種保存をしてきました。
満州豚は多産で1960年には26頭の世界最高を記録したことがあり、肉質は脂肪が薄く、肉は赤くとても旨味が濃く良質なのですが、歩留まりが悪く発育が遅いという、畜産農家にとって致命的な欠点を有していました。
東日本大震災前までは、満州豚を生産している業者は数人しかおらず、その中でも原種を保有しているのは日本では新妻尚二郎氏しか確認されていませんでした。当時、新妻氏個人で原種保存をしていたものの、生産数が極めて少なく、月に4,5頭が肉加工される程度でした。その肉も一般の豚と同等に小売りされてしまう為、希少な原種豚の肉と知って食していた消費者は皆無だったことでしょう。
2011年3月11日。
東日本大震災が起きたことで、福島県いわき市の環境下で満州豚を育てていくことに限界を感じ、大切に育ててきた豚たちを疎開させることを決心します。
新妻氏は、10年以上前から交流のある「豚博士」、桑原氏に救いの手を求めました。
満州豚を引き継いだ富士農場、桑原氏
桑原氏は静岡県富士宮市の富士農場の獣医であり、豚の人工授精の権威です。世界中から優れた豚の原種を調達・飼育し、その血筋を世界中に供給しています。現在、その富士農場に原種の満州豚は託されています。豚の精液を凍結保管する「遺伝子バンク」には、桑原氏が世界各地を回って集めた優秀な精液が10,000本以上保存されてる世界的にも希少な施設です。研究や貢献などが認められ、農業従事者の栄誉である農林水産大臣賞を受賞する人物です。
数奇な運命で生き残った原種
「満州豚」、そしてその未来
満州豚は、日本で一般流通している豚よりも、脂肪が薄く、肉の味が濃くイノシシに近い肉質が特徴です。いかんせん、歩留まりが悪く成体でも60〜70kg程にしか成長しないため、普及していません。
現在は富士農場が手がける満州豚を基礎とした豚をセレ豚(セレブ―)として売り出すことでその未来へと繋ぐ試みの真っ最中です。国内外の豚との競争を勝ち抜くため、品質や栄養価の面で優秀な豚を創出する試みを行っています。
- HOTワード
- #「瓢亭」「蜀郷香」「懐石小室」など、名店の味をお届けします #とっておきのスイーツ #東白庵かりべ かけ・せいろ #オイスターバー #江戸前ちば海苔 #瀬田の唐橋 炭火割烹 蔓ききょう #表参道ナプレのピッツァ